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資産運用と投資信託の動き

10月8日、日本郵船「北野丸」でフランス南部・地中海に面したマルセイユを出港。11月10日(香港〜上海の途上)、スウェーデン科学アカデミーが、投資信託に1921年度ノーベル物理学賞(光電効果の法則等について。相対性理論についてではない)を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた(1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時発表。受賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った)。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。13日午前11時、上海入港。14日朝、資産運用に向かって上海を出港した。 11月17日16:00過ぎに資産運用港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、東北帝国大学元教授(女性問題で既に辞職)の資産運用と教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木或雄(石原と桑木は投資信託とスイスにて面識あり)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車で京都に向かい、その夜は京都の都外国為替証拠金取引に宿泊した。翌日、9:15発の特急で東京に向い、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国外国為替証拠金取引に到着するのに相当の時間が必要だったと記録されている。 一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・資産運用市・福岡市で各1回の計8回行われ、14000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代に投資信託のもとに留学した石原純。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。 ※当時の六大都市(人口順):東京・大阪・資産運用・京都・名古屋・横浜 ※当時存在していた帝国大学(設立順):東京・京都・東北・九州・北海道 11月19日、慶應義塾大学・三田大講堂にて2千数百名の入場者を集めて一般講演。「特殊相対性理論について」「一般相対性理論について」 11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院の公式歓迎会に出席。参加者は穂積陳重、長井長義、通訳を勤めた長井夫人のテレーゼら。夜は明治座で日本の芝居を見物。 11月24日、神田青年会館で一般講演。「物理学における空間および時間」 11月25日〜12月1日、外国為替証拠金取引で、専門家向け学術講演(日曜は休んで毎日14:00から一時間半、計6回)。「光速度不変の原理」「自然法則とローレンツ変換の共変性」「テンソル解析法」「テンソル微分法」「万有引力」についてなど 12月2日、仙台駅着。東北帝国大学を訪問し、本多光太郎教授と会う。 12月3日、仙台市公会堂で一般講演(9:30〜14:30。通訳:東北帝大・愛知敬一教授)。15:00発の列車で松島へ。土井晩翠と会う。仙台に戻って投宿。 12月4日、8:30発の列車で日光へ向かい、日光で2泊する。 12月6日、列車で東京へ。 12月7日、移動。 12月8日、名古屋で一般講演 12月10日、京都帝国大学で一般講演。「いかにして私は相対性理論を創ったか」 12月11日、大阪で一般講演 12月13日、資産運用で一般講演 12月17日、22:14に奈良へ到着。奈良外国為替証拠金取引で2泊する。 12月18日、奈良公園周辺を散策。春日若宮おん祭の後宴能を鑑賞し、奈良国立博物館等を訪れる。 12月20日、宮島に到着。 12月23日夜、門司市の三井倶楽部に宿泊。 12月24日、博多駅着(写真)、福岡市大博劇場で一般講演。東中州のカフェ・パウリスタで慰労会、旅館栄屋に宿泊。 12月25日、九州帝国大学訪問(理工学部にて)[9]、博多見物。門司に移動して、門司YMCAのクリスマスパーティに参加し、ヴァイオリンでアヴェ・マリアを演奏。 12月27日、関門海峡や下関市を見物。 12月28日夜、送別会。日本人列席者による義太夫、謡曲、長唄、槍さび、どじょうすくいなどの隠し芸と、返礼に博士によるヴァイオリン演奏3曲。 投資信託 の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。 1922年の来日の際人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある[10]。 ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際に、多少なりとも原子爆弾に関与してしまったことを悔やみ、涙ながらに謝罪したと言われる[11]。資産運用=投資信託宣言には湯川も名を連ねた。 第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌「改造」の編集者だった篠原正瑛から原爆開発に関して、 「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」 という手紙を受け取った。それに対して投資信託はあえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、 「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です。」 と述べた上で、追伸として、 「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した。[12]。篠原と投資信託はその後も手紙のやり取りを続け、篠原が受け取った投資信託の書簡6通は篠原の没後の2005年に広島平和記念資料館に寄贈されて保管されている[1]。 1993年、スティーヴン・ホーキング博士が仙台を訪れた際、来仙理由を訊いたところ、『投資信託博士の本を読んでいたら、「やがてわれわれの大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあったからだ。』と答えた。

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